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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

造船時代その7


造船所時代の日記(7)です

姉を訪ねて、豊中に行った。VZ750で200キロほどのいつもの行程だ。姉は何も言わない。私も多くを語らない。ただ一晩泊めて貰った。翌日、高校時代のバスケットボールのOB会である親籠会に出席した。久し振りに見る顔は、懐かしく、然し随分変わっていた。昔の豹の様な目はなく皆、猫の目になっていた。でも昔の仲間と飲めるのは嬉しい。わざわざ来た甲斐があった。
翌週、千葉に向け何回目かのツーリングに出かけた。今回は、大阪までは同じ道を採った。ブルーハイウェイ、山陽道、第二神明、そして又姉の家泊。翌朝6:00に起き何時もと違って、小牧ジャンクションから北上し、中央高速を走った。
東名とは又違った風情、風景を楽しみながら、走っていると、前方に女性らしき一人ツーリングが見えた。付かず離れず走っていると、そのマシンは、駒ヶ岳SAに入るべくウィンカーを出した。
私は、別に当てがある訳でもないので、そっと一緒に左折した。駐車場で、その女性が、ヘルメットを脱いだ瞬間、長い黒髪がばさっと現れ、首を横に振って、その髪を自然にさばいた。凄いと私は思った。でも前に回って、顔を見ることはしなかった。回ってがっかりする確率が多いと考えたからだ。美しい長髪の女性ライダーが黒髪を束ねヘルメットをかぶり、一人当てもなくツーリングしている。そう考えた方が、後々良い思い出になるのではないか。駒ヶ岳SAで足腰を伸ばし、そのまま直ぐにVZ750に跨った。岡谷ジャンクションを右に採り諏訪湖を左手に見て、中央高速は、今度は南下する。小渕沢インターチェンジで降り、深沢温泉に投宿した。

その日の走行距離、878km。VZ750に乗りはじめてからすでに6264km走破していた。私は、とても気が弱い所があり、夜は怖いのでなるべく昼間走りたかった。その一方では何時死んでも誰も悲しまないのだと一人自分をいじめた。

ひなびた深沢温泉に着いたのが正午を少し回った時だった。昼食を取り、温泉に入り、休憩した。思えば、ここまでで、6回も給油した。タンクの容量が小さいのが玉に瑕だ。その分スマートだが、実用面では常にメーターを気にしなければならず不利だ。私は、ふと鳥取からの帰り道、山中で、メーターが0になり、慌てて、ガソリンスタンドを探し、なかなか見つからず、やっと見つけたスタンドは無人。不在の店主を呼びに行きやっと給油でき、冷や汗をかいたことを思い出した。

翌日は少しゆっくり起き、後の行程をのんびりと走った。小渕沢から、更に南下、談合坂、高井戸を通り、首都高速に入った。首都高をぐるりと半周して、千葉への湾岸道路を採り、TYa君の家を訪れた。その日は、300kmの行程だった。

彼は快く迎えてくれる。何時もそうだ。彼の奥さんも出来た人だった。一宿一飯の礼を言い、私は、とんぼ返りをした。千葉に来るのは何回目だろう。その時私は、自分がその社宅の近くに引っ越すとは露ほども思っていなかった。
帰りは、何時も通り、東名を使った。スピードの出しすぎに気を付けた。一気に豊中の姉の家まで帰り又泊めて貰った。気を紛らわせるには之しかなかった。
姉の家を8:45分に出立、一路、誰も待っていない家、玉野に帰った。玉野着は昼過ぎ、メーターは7390kmを指していた。2004kmの単独ツーリングだった。

日曜日は、よく晴れた。近くのツーリング仲間と、会社の同僚とで、氷ノ山にツーリングだ。兵庫・鳥取県境、中国山地東端部の火山で標高1510m、スキー場で有名である。中国山脈にしては割とゴツゴツした山だ。集団でのツーリングも面白い。誰一人、私が、離婚し、憔悴しきっているとは知らない。楽しいツーリングは、直ぐに終わった。又計画しますよ、参加して下さいと「くろねこ」(ツーリング仲間の名称)の主唱者は言って、散会となった。帰ったら、TIk氏が、傷病手当の件で書類を持ってきた。「大分良くなって良かったですね」と言うと「まだまだですよ」と言って帰った。

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仕事だと言って、高校時代のバスケット仲間のKHaがやってきた。懐かしさが一杯で、よく飲んだ。話は弾んだ。KHaは、「お前は狡い、体育祭の時1500mで2年も続けて優勝して。俺なんかは、その分マラソン(20km)に回され、しんどかったぞ。」
私は高校の体育祭で2年、3年と連続優勝、3年の時は地上まで垂れそうなはちまきを巻いて、疾走した。それが格好いいと思っていた。その分若かった。「だけどお前も優勝したから良いじゃないか」「疲れが違う。疲れが・・・」と高校時代、中、長距離を二人別々に走りそれぞれ優勝したことを思い出して、愉快だった。KHaとは、高校卒業時の成績通算5回の模擬テストの合計点が奇しくも全く同じ点数だったこともあり、奇遇であると感じていた。

翌日曜日、KHaを送りがてら、瀬戸大橋を回って、児島を通り抜け岡山に向かい、大阪までの無事な帰宅を願い、再会を約して、別れた。
造船も不況になり、私の部下達のなかには、期限付きながら自動車会社へと出向していった者もいた。かの船尾骨材のベテラン設計者もその中にいた。中には、頑として出向を拒むものもいた。地方採用の彼らには、出向を拒む権利があった。
そんな中、GOo室長と、原図のベテランKa、Oku両氏と、会社近くの「うさはらし」で飲んだ。近頃の情勢、之からのこと、色々な話題が出たが、GOo室長も的確に応えることは、出来なかった。

黒い犬の病院が、岡大病院から、岡山労災病院に変わった。少し近くなったが、矢張り薬だけは貰っておいた方が良いと判断した。

そんな中、新任課長講習会が金曜から土曜に掛けて、熱海の芦川クラブで行われた。色々なケーススタディや、与えられる課題、フリートーキングで、ゆっくり寝る間も与えられなかった。気鋭の若手だ、私もそれに互して堂々と振る舞った。
アルミ船も、漁船などが加わって、少し活気づいたが、問題点の違った難しさはあるものの、所詮は、小さな船、船台で作る様な物ではなく、横から、小さな海上クレーンで、吊り上げ、海上に浮かべる、質素な物だ。従って、一時の様な華やかさはなく、艤装岸壁も寂しく、かつては数隻係船、艤装中が常で有った巨大船もなく、何処で船を造っているのだろうとの感じだった。昔、船台にぺんぺん草が生え、鍋釜を作っていたと言うことを聞いたが、それに近い虚脱感があった。
まだ、F576は仕事が残っていたので、その仕事もしなければならない。現場の建造に対する細かな注文に応えて、強度計算をしたり、地上での総組(総合組み立て)の方針を確認したり、当面やることは一杯あった。やがて、いつもの様に海上クレーンによる2500トン余りの構造物のつり上げをしなければならない。
そんな中でも、船体構造委員会関西地区部会が水島サノヤスで行われ、出席した。
さらにS1344の建造方針会議や、住友金属との軽量形鋼の技術打合会などに出席した。
日曜日には、ゴルフのため、賀陽町まで出かけた。帰ると、息子が来て、話し、泊まって帰った。
殆ど満たされない日が続き、生きていく価値を見失いそうだった。

部長が、TAmからHKiに変わった。私にとっては、どちらにしろメリットはなく、先行きは見えていた。どちらも構造屋ではなく、いわゆる艤装屋だった。一時は、張り合ってきた仲だ。うまくいく方がおかしい。それでもGOo室長以下、古河アルミとの検討会、S1344の技術連絡会と、やることはまだあった。
とある夕方、TNaから電話で、「S23年生まれの、未亡人で子持ちが居るがどうだ」と電話があった。私の、すさんだ心を何とかしようとの配慮だ。今更新しい子供を持とうとは思わない。とてもその気になれず、「俺は未だ良いよ、でも有り難う」と丁寧に断った。
その日新旧部長の挨拶があった。

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F576の巨大ブロックの吊り点をチェック、台付け(吊り上げアイの取付)を行った。
そして、やがて地切りの日、早朝5:30GOo室長以下私を含めて、関係した設計者5名が見守る中、やはり少しの横揺れがあったものの、巨大ブロックは無事吊り上げられた。この様にして次々と分割された、構造物は、コラム上に吊り上げられ、セットされていった。

組合の委員長であるHNが来て、会社の先行きの話しをした。元は私と共にバスケットをしていて、職制に見込まれ、委員長になった。はったりの弁は立つが、中身のない、どうせご用組合の男だ、聞いても空しいだけだ。私は途中で、そっと席を立った。
新任部長の歓迎会が不楼閣で行われ、幹部が出席した。部長杯のソフトボールも例年の様に深山公園の一角にあるスポーツセンターで行われた。

 私は、一時出ていたアパートから元の今は何も残されていない、だだっ広い自宅に帰っていた。ピアノを含め、めぼしい物は洗いざらい持ち出されていた。

引越のあらゆる手続き、住所変更・新聞・電気・電話・・・・・、を私は一人で、こつこつとこなした。TIkさんが、手伝ってくれた。

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明けた土曜日、設計部長杯のゴルフコンペに出た。玉野には、2つのゴルフコースがあり、その旧い由緒有る玉野クラブで行われた。山岳コースに近く、打ち上げ、打ち下ろしの多い、時には、リフトで上らなければならないホールもある。私のゴルフは、バスケットをやっていたお陰で、足腰は安定しているが、スウェイして、思う様にインパクトがボールに伝わらない。それにメンタルに弱く、チョロしたらどうしよう、OBだったら、どうだと悪い方にばかり考えてしまう。結果は、練習の時の様にうまくいかない。仕方ないと諦めている。従って成績は常に悪い。

帰ってからも、住所変更に伴う諸手続を行い、忙しかった。一人で生きるのは、大変な苦労があることをつくづく感じた。その夕方、課内の半期考課の摺り合わせを、GOo室長の部屋で行った。誰かを良くすれば、誰かが悪くなる。人が人を評価する難しさを今回も味わった。その疲れもあって、日曜日は、終日自宅で、飲みながら過ごした。
蒼年会のパネルディスカッションが行われた。私の様な若い課長は、結局年かさの先輩に呑まれる様になっている。仕方がないことだが、若い意見も採り入れなくては、将来の展望は開けないと思いながら、蒼年会を後にした。
本社との設計交流会で、本社の設計陣が玉野にやってきて、2日に渡り意見を交換、2日目の金曜日には、正に偉容を表しつつある、F576の現場に案内した。

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熱心な連中は、土曜日も出勤し、たまった仕事をこなしていた。

段々と、設計本来業務から、改善、WEプロジェクト、効率化学習会・・・と余計な仕事が続いた。
何事もやる気がなく、次の土曜日も終日ベッドで過ごした。

若いMOg君が結婚するという。招待状を貰った。結婚式では、何か喋らなくてはならない。バツイチになっては、何を話して良いのか、過去何回も結婚式に臨席させて貰ったが、その時と訳が違う。大いに呻吟した。
1986年11月20日会社で、YYから電話があったと若い人が伝えてくれた。残業時間中のことだった。何事かとは思ったが、返事はしなかった。
後で、誕生日のことかと思ったが、何時も要所では抜けている自分を感じた。

翌日YYから電話があった。「えぇ、誕生日だったから」と軽快な声が帰ってきた。今でも気に掛けてくれている。矢張りYYは私が最も愛した女性なのだと改めて感じジンときた。昨日といい、今日といい、久しぶりに満たされた気持ちでぐっすりと眠る事が出来た。

F576の打ち上げを、構造設計の仲間と一緒に行った。トン松別館で、当時としては豪勢な宴会になった。苦労話に花が咲き、その後も、この様なリグが来ることを信じて疑わず、我々は、遅くなるまで、飲み、語った。
「ブレーシングの格点部の高応力を逃がすのに苦労しましたよ」、
「上甲板のコラムへのスムーズな応力伝達のための、構造配置は難しかった」、
「船主交渉に課長と一緒に連れ出されて、課長は、急に、僕に説明しろと言われた。あれにはビックリしましたよ」・・・皆それぞれの立場で、最善を尽くした結晶が、岸壁にあった。今は没水しているポンツーン、4本の巨大なコラム、上半身だけのブレーシング、深さ3mはある上甲板。その横腹には、船名の「POLY CONFIDENCE」が白く浮き上がり、その上には、コルゲートした壁を持つ巨大な居住区構造。クレーン、ヘリポート、救命艇、係船用のウィンドラス。・・・。様々な搭載機器を乗せた雄姿があった。

その後も少し早めの忘年会を鷲羽山ハイランドホテルで行い。殆どその年は終わったかの雰囲気であった。神戸商船大学の練習船「深江丸」や、漁業取締船などは、私たちには軽いものだった。
女子活性化講演会があった。考えてみれば、この頃会社では、女子は、結婚退職が不文律化されており、如何で、活性化かと思われたが、田舎のことである、言われるままに従っていた。

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船体構造委員会関西地区部会の幹事会と、委員会が、大阪で行われた。私は、幹事会への出席は初めてであったが、そこには学生時代の同級生の顔があった。懐かしく、今やっていることや、昔話などを語った。
委員会は通常通り終了し翌日が土曜日と言うこともあって、TNaに会い、話した。何時もぼそぼそと「せやけど。お前は・・・」で始まる彼独特の口調に、つい昔を懐かしく感じた。TNaは、必ず「YYは・・・」と情報を話してくれた。
姉の家に泊まり、翌日皮のブルゾンを買った。会社に電話すると、TNo工場長が、逝去されたとのこと。54才は若すぎる。
かと思えば、若い、○○君の結婚式が、岡山のまきび会館で行われた。悲喜こもごもである。
原図Gの忘年会も行われた。管理スパンが広く、大所帯なので、別々の忘年会とならざるを得ない。

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ふと、吉田号の強度計算を担当し補強を決めた、心ならずも九州に帰ったSMa君を思い出し、一緒に飲んで話した時のことを懐かしく思った。私は優秀な彼を引き止めるべく説得を試みたが,彼には辞職を翻意する気持ちがないことが分かり、見送った。

こうして1987年を迎えた。

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年頭に当たっての社長、所長、工場長、果ては室長までの挨拶があった。どの話しも、会社の厳しさを訴え、再生を促す内容であったが、上層部自身が変わらないで、何が変革だと密かに思った。続いて私は、直接の部下である課長補佐の面接を行った。それぞれに意見はあるが、限られた土俵での発想は、それ程抜本的なことを期待する方が無理だ。
当時から、製造業のかけ言葉は、「コストダウン」だった。之に徹するしかない、社長までが、それを云う、次元の低い会社になったものだ。

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F576の第1回目の海上公試が始まった。瀬戸内海での簡単な機器操作だけであったが緊張した1日だった。私にも満足行く仕上がりであった。ホテルバージは、居住区がメイン。其処は美しく、しっとりと仕上がっていたが、私が携わったのはそれに隠れる壁、外側からは、コルゲイトした、素肌が、塗装に隠れて、見える。
技能職は現地採用だ。職種もGコードが付き、完全に差別されている。Gコード変更試験がある。若いM君が受かった。4倍の厳しい関門だった。

その間に、蒼年会(部課長の懇親会)がありその夕刻養老乃瀧で、私の率いる海洋Gの解散会があった。仕事から突き放されてしまった感じがした。
NVのオーディットがまた始まった。今回はつぼが分かってきたので、2日間に渡るオーディットも我々にはさほど辛くはなかった。
時の部長から飲む誘いがあったが、私は断った。
私の頭は、異常になっていた。阪大会には出席したが、土曜日の王子が岳ハイキングは休まざるを得なかった。S1348/9の船主である、A.P. Mollerに補強材の歪みについて、技術的説明を求められたからもある。土曜日でも我々は働く。付き合わさせられた。

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私とは交わりの薄かったHYu課長の送別会が会社の本クラブであった。東京へ行く。私が断り続けた東京へ。東京からはKa課長が、最近のTLP(Tension leg platform)の動向について話すべく来玉した。太いケーブルテンドンを用いて、海底に固定し作業をする石油掘削リグとは違った、作業用甲板である。私はそれに関わることはなかった。

土曜日、年度考課のため、GOo室長の部屋で、商船担当の課長と、摺り合わせを行った。翌日の日曜日、腐った珈琲を飲んで、嘔吐、熱を出して、寝込んでしまった。一瞬、一人は辛いと思った。

週半ばから週末一杯東京へ出張した。S1344の船主要求板厚について、本社と、AB横浜(関内)の意見を聞き、調整するためだ。住友金属との会議を夜の9:30位まで本社で行った。今手掛けている、アルミ船の材料について、分からないことが多すぎるからもあったからだ。
帰り、再び、AB船級協会に立ち寄り、最終確認を行って、S1344の所要板厚の決定にこぎ着けた。
土曜日、この所、出勤することが多くなったが、現監査役が部長として来られていて、しばし話した。現在は艦船の営業をしておられるとか、畑違いではあったが、偉くなるには通るべき道なのかも知れない。
私には、関係ないことの様に思えた。

船主の監督として様々な人が、玉野にやってきた。長刀状のラダーストックについての話が主だった。私が技術的な説明をした。
また、アルミ船である漁業取締船の着水(進水に相当するもの)、予行、公試と、たて続けにあった。
翌土曜日も相変わらず出勤。日曜日には、TIk氏の見舞いにお邪魔した。大分良くなられた様だが、矢張り右手が自由にならない。他の話しもあり4時間程居て、辞去した。

S1336/7の船主Mr.Ole Christiansenが来玉し、”Steel structure bracket beam and others”について、Discussionを午後一杯掛けて行った。
土曜日には、息子と、娘がやってきた。私は風邪を引いていたので、何もしてやることは出来なかった。

会社では、少し、仕事減少と出向に関して動揺が始まっていて、活性化イベントが計画される一方、若い人が辞めていった。考えてみれば、ここでずっと勤めても、俗に出世とは縁がない。他の道があるなら、それも良かろうと、かえって羨ましくもあった。もう一人は、千葉への転勤を命じられて、退職を決めた。退職組と、千葉転勤組と合同での歓送会が玉クラブで行われた。複雑な気持ちの歓送会であった。

S1336(自動車運搬船)の第1回海上公式試運転が3日間に渡り行われた。それに先立ち、その船には、固定バラスト(セメント)の注入が行われていた。トップヘビーになり、喫水が取れないために動揺、復元性に問題があって、予め船を沈ませておかなければならないからだ。この種の船には、良くある問題であった。
またしてもNV船級のMr.Jensenと船主のコメントについて、話し合った。Mr.Jensenは、色々な船が日本で建造されているので、本国からわざわざ、来日し各造船所を回っているという。私は「Dr.Carl CarlsenとMr.Kunudsenは元気か」と聞くと、「元気でやっている。Mr.Kunudsenはリグがめっきり減ったので、力を落としているよ」と応えた。

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S1337(S1336の姉妹船)が進水すると同時にS1336の命名式(Eternal Ace)が行われた。そして、金曜日から日曜日の3日間掛けて、S1336の第2回海上公試が行われた。蒼年会では、互いの部署での専門的な内容を紹介し合った。彼は、リグの構造計算を有限要素法(FEM)で行った事例を取り上げ、みんなの前で、プレゼンテーションを行った。

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離婚後のひとりでの生活。
私には、この呪縛から逃れるためには、「死」しか考えられなかった。「死・死・死・・・・」甘美にも聞こえるこの言葉を私は、それから毎日の様に引きずって生きていかなければならなかった。

昨年から、引き続き考え悩んだ「死」も結局勇気が無くて果たせない。誰も助けては呉れない。そんな中、辛うじて、息をしていた。

F576の海上公試が始まった。最初は振動を対象に行われた。ホテルバージの一番の要だ。私も心配で、当然乗船した。3150kw8基のジェネレーターはフル稼働された。更に、方向調整用のスラスター2400kw、8基も同時に運転された。過酷な状態での起振力に耐えて、振動が、船室に伝わらない様になっていなければならない。
POLY CONFIDENCEは大人しかった。許容値内の振動応答しか計測されず私はひとまず安堵した。そして、之が最後の海洋構造物かと、一人寂しく、目が潤んできた。
その週の土日は、何処に出かける力もなく、終日家でごろごろしていた。一人で居ると、ろくな事を考えない。仕事の行き詰まり、更に黒い犬の来訪、死、思考が悪循環に陥る。

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S1336も完成図書が出来上がり、やがて引き渡されていった。私は、もう会うこともないであろう、自動車運搬船としては、優雅な船型を見送った。
F576の振動結果の公式報告を終え、本格的アルミ船の建造が盛りとなった。自分の仕事も最早、之までかとの思いだった。
土曜日は、課員全体の考課表を、商船担当課長と摺り合わせた。

日曜日、故障で、ドックインしていたVZ750を駆って、鞆の浦にツーリングに出かけた。途中のハイウェイで、バイク進入禁止の道に気づかず、走っている所を、巡邏中の警官にとがめられた。全く気が付かず迂闊だったことを認めたら、警官も、気を付けて帰りなさいと、見逃してくれた。パトカーが走り去るのを見て反転しようとして、ハンドルを切ったら、久しく乗っていなかったことも手伝って、立ち転びをしてしまった。如何に軽いとはいえ、人間一人の力では、一旦転げ始めた車体を支えきることが出来ず転倒、ブレーキに多少の損傷を与えてしまった。そのまま何とか、玉野のバイク屋に持ち込み、また修理にだした。その時バイク屋に、これは車検が切れていますよと云われ、初めて、その事に気が付いた。踏んだり蹴ったりである。

最後の海上公試が紀伊水道で行われる。私と、私と共に苦労を重ねてきたSKa氏が乗船すべく、由良に向け出発した。由良には修繕用ドックがあり、そこからサンパンが出るという。1日目は波が荒く、サンパンが揺れて危険なので乗船は見合わされた。ようやく出張2日目の夕刻乗船し、早速船主に振動の件を含めて説明した。説明後、部屋に戻ってから急に歯痛に悩まされ、下船するまで痛みは止まらなかった。重要な局面は過ぎたので、3日間、乗船の後サンパンで下船の便がある迄待って、日曜日に下船した。
F576から遠ざかるサンパンから振り返ると、かくも巨大なフローテルを作ったものだと、設計時に苦労した箇所に自然に目が行き、又、全体の偉容に我ながら驚きと感嘆の声が出そうになるのを押さえた。
帰って、会社の関係する病院の歯医者に2日間通った。本社からは、TF2007(Zapata)とTF2008(Mearsk)の船が舞い込んできた。

この時、2台目のパソコン98LTを購入した。結局殆ど使い物にはならない代物だった。1台目は、シャープのMZ7000で、テープで、Basicを動かすものだった。それに比べると、少しはましだったが、ワープロソフトも「テラ3世」というもので、今日のワードや一太郎は未だ出ていなかった。

歯痛2日目は年休を取り休養した。心労が重なってのものだった。バイク屋にブレーキの損傷修理代5万円を払いVZ750は生き返った。

何を糧に生きているのか、私にはもう分からない。仕事も、管理職になって、実践の技術からは遠ざかった感がある。部下の人達の出向、転籍の説得、手配など私にとっては面白くないことが続いた。
F576のその後4日間の運転には、私は乗らなかった。やがて、去っていく一人の年配者と、若い技師が乗船した。土曜日に造船所の艤装岸壁沖からF576から降りてサンパンで帰る二人を迎えに出た私は、改めて、フローテルの偉容をぼんやりと眺めた。乗船の二人から、何事も無く海上公式試運転は終わった事を知らされホッと安堵の息をついた。

バスケットボールの春期岡山県優勝大会リーグ戦が始まった。滑り出しは順調だった。チームは私とその仲間が岡山県では、ある一定の実力を持つチームに仕上げていた。私は、見るより自分でやる方が好きだった。20点は稼いでいた全盛期に比べ、欠員を補うために出る試合は、思う様にいかず、昔の様に身体が動かないことを感じ始めていた。
その週のNHKでF576の雄姿がテレビに映し出された。「これに関係したのだよ、この部分に苦労したのだよ」という相手が傍に居ないまま、テレビ放映は数分で終わった。
最後にNVに振動の説明を行った。徐々に終焉を迎える。

内外共に不景気の波が襲い、造船所も沈滞するムードの中、活性化イベントが計画され、彼ら蒼年会は率先して、模範となるべく会合を重ねた。イベントは一応の成功を収めた。反省会でも評価は良かったが、如何せん気持ちと市場(パイ)の関係は、比例しない。相変わらず腹の減った(受注出来ない)状態であり、期限付とはいえ、千葉に転勤する、玉野雇いの人間を宇野駅まで送ることも必要だった。
私は技術者としての仕事が殆ど枯渇した中、活性化を叫ぶ、周りになにやら白々しいものを感じた。

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仕事では、S1356(自動車運搬船)の工程会議、資材打ち合わせと、リグ以外では、未だ少しながら仕事はあった。私は先任の課長を差し置いて、商船の方に戻っても部下をリードした。
その間にもNVのMr.Yensenが来玉、損傷、居住区の振動、傾斜梯子等多方面に渡って、ミーティングを行った。GOo室長は、社外の活動に専念し、社内での仕事は、全く私に任せ、その報告を聞くに止まった。
そんな中、珍しく、TNaが電話してきて、いつもの様に「元気でっか」と陣中見舞いを呉れた。

私は、とても不思議な感覚に取り付かれ、何となくうら悲しい、人生の一幕を感じていた。

漁業取締船などのアルミ船は、順調に建造されたが、みんなを食わせるには、パイは小さすぎた。工作図の、NS、O、Miといった連中には、2年間の日野自動車への出向を指示することになった。NSはそれを嫌い会社から去った。そんな中F576は名実共に、艤装岸壁を離れ、操業の途についた。多くのタグボートに引かれて、巨大な船体が、小さくなっていく様は、湧き上がる感情が一気に込み上げ、由良沖で、サンパンから振り返った時の感情とラップして、嗚呼終わったと私は感じた。
その日は土曜日で出社の必要はなかったが、見送った。
そんな中、原図のベテランKa氏が亡くなり、急いで、通夜に出かけ、翌日は喪服に着替え、葬儀に参列した。失う寂しさが2倍になった。

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関係者によるF576の打ち上げ会があった。プロジェクトマネージャーと同様私も慰労された。しかし本当に頑張ったのは、私のスタッフ達だった。私は、ねぎらいの言葉をスタッフに掛けた。それぞれの部分で、スタッフは素晴らしい仕事をした、私は指揮者であった。楽器を奏でたのはスタッフである。

造船時代その8に続きます。




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